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藩境のまち「ランマ・指物の世界」

藩境のまち「ランマ・指物の世界」

前回のアップからずいぶん時間が経ってしまいました。

何かと仕事が重なりゆとりがありませんでした。

さて、今日は大川の木工の歴史をランマを中心に勉強できるイベントの案内です。

藩境のまち「ランマ・指物の世界」が1月21日から2月28日まで、大川市立清力美術館で行われます。
実は私もまだ見てません。でも楽しみにしていました。

明治から昭和初期までの、木工の手の技術が成熟していった時期のようです。

1月31日13:30から岳野博昭さんの講演があります。
また、2月7日13:30からは鐘ヶ江典夫さんの講演です。

清力美術館も明治時代の歴史ある建物です。

大川木工のはじまり

先日ソニー提供のTV番組「世界遺産」でノルウェーの木造教会が紹介されていました。1700年代の建築で、造船技術が活かされているとのことでした。森と湖の国ノルウェーで、主な移動手段は船です。食料も湖や海から得るために船は欠かせない存在だったことでしょう。苛酷な環境で自分たちの命を守るために、造船の木工技術が発達したのは必然的です。

実は、大川も筑後川の下流域にあり、有明海も近く魚介類の宝庫です。早くから人々の生活が始まり、漁や移動手段としての船が活躍していたことは、歴史が語っています。

全国に伝わる徐福伝説もその一つです。
紀元前に中国から日本に着いたとされる徐福は、日本に稲作や造船、木工の技術などを伝えたとされますが、まず九州に上陸し徐々に東に移動していったのではないでしょうか。

明治後期に三池港が竣工し鉄道が発達するまで、榎津港や若津港は九州でも主要な港であり造船技術が集約された地域で、たくさんの船大工が存在しその技術は門外不出で外部に出ることはありませんでした。
その船大工が造船の衰退とともに、家具製造に従事し始めたるのです。もちろんそれ以前にもノルウェーのように、造船技術を活かして建築や建具・指物を作っていたことでしょう。

先日、石橋泰助先生とお話しする機会があり、「大川の造船技術にスポットを当てれば、大川の木工技術の歴史は450年前の久米之介よりさかのぼる事ができる」と。

世界遺産に登録されているノルウェーのウルネス木造教会は、300年前の建築当時と今も周りの環境があまり変化していません。大川はこの100年で木工が産業化し大きく変化しました。その分大川が急激に無くしている物があります。手で木を理解した職人です。

造船から始まった大川の木工技術を伝承させるために、手で木を理解する職人は不可欠です。
私たちデザイナーはそんな職人さんにデザインの基本を教えてもらうのですから。

山葉の文化椅子

今日は山葉の文化椅子についてお話します。

この椅子は山葉(現在のヤマハ)が、昭和3年に製作製造をはじめた折りたたみの椅子です。大正末期から昭和10年まで製造していたとの記述したものもありますが、大正時代には木工機械が導入されていることを考えると、大正末期に製造されていても不思議ではありません。かなり大量に販売していたようで、機械を使用していたのは間違いないでしょう。

最近、ヤマハから復刻版として製造販売されています。

文化椅子1

文化椅子2

文化椅子4

写真の椅子は昭和初期のもので、キャンバスも当時のままですから、すわり心地を確認することはちょっとできませんが、事務所に置いて皆さんに見ていただいています。
熊本の親戚で10年ほど前までは普通に縁側で使われていたものです。この細い部材(桜材?)でフォールディング、しかもロッキングの椅子をこれだけ長い間使用できる、設計と製造の技術はすばらしいと思います。

文化椅子3

文化椅子5

文化椅子6

椅子にはやなり広葉樹ですよね。この当時は、日本の山にもたくさんの広葉樹があったのでしょう。現在は国内の広葉樹で家具を作ることは、材料の安定供給少なく厳しいでしょう。輸入木材が将来もローコストで大量に供給されるとは限りません。今となっては多少遅いかも知れませんが、杉だけではないバランスが取れた国産材の供給のために、広葉樹の植林が必要でしょう。特に九州は広葉樹の森が少ないのです。
バランスが取れた森は見た目にも美しく、自然環境のバランスも良くなります。
家具の話から少しはずれましたね。文化椅子については後日改めてお話しましょう。

大川で最初の木工機械

今日は大川で初めて導入された木工機械についてお話しましょう。

大正11年に木工機械を導入したのは松本箪笥店の洋家具部でした。
現在は残念ながら営業されていませんが、当時の機械を工場レイアウトそのままに、村上機械さんの資料館に展示されています。

村上機械資料館1

村上機械資料館3

村上機械資料館4

機械だけでなく当時の椅子の仕掛品もありました。当時こんなおしゃれな家具が大川で作られていたことに感動しました。

下の写真は昭和30年代の大川木工産業新聞の広告から

松本洋家具

工場の中にはレールが敷かれトロッコで部材を移動させていたそうです。
なんとそれぞれの機械にモーターは付いていません。大きなモータ一つですべての機械を動かしていました。モーターの回転をベルトでそれぞれの機械に伝えていたのです。そのために工場の上部には平ベルトと伝道プーリーが複雑に配置されています。

詳しくは村上機械の資料館HPをご覧ください。
村上機械木工産業資料館

古い道具たち

我が家で活躍している古い道具を紹介します。
私が独身のころ(35年以上前)買った箒です。

DSC_0221.jpg

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かなり磨り減って、そろそろ処分しようと思っているのですが、
最近我が家の老猫が気に入って、この箒で掃除していると近寄ってきて
なでてくれと言ってきます。
結果、掃除がなかなか進みません。

DSC_0220.jpg

次に箪笥を紹介します。
多分明治30年以前の大川の箪笥だと思われます。
右下の扉がなくなっています。この扉の兆番は大川独特の差込兆番です。
簡単に扉がはずせますので、この手の箪笥では扉がなくなっているものも多いようです。
この差込兆番他の産地ではあまり見受けられません。
どうして大川だけに発達したのでしょう。

このような形の箪笥を士(さむらい)型と、小泉和子さんは分類しています。
一番上の抽斗(ひきだし)は刀を収納したからだそうです。
しかし、明治になりその用途は変化したと思います。
私が父(明治39年生まれ)から聞いた話では羽織を入れていたそうです。

父も子供のころ使い、私も成人するまで使っていました。
そして私の子供たちにも独立するまで使わせていました。
また、今は私たち夫婦で使用しています。
次は誰が使ってくれるのでしょうか。

DSC_0222.jpg

25年ほど前にデザインした杉の座卓も思い出がいっぱい詰まった家具でした。
軟らかい杉材ですから、子供たちが勉強すると紙の上から鉛筆の後がつきました。
飼っていた犬が子犬のころテーブルの端を咬んだまま眠っていました。
高さがちょうどよかったのでしょう。
そのテーブル、今は上の子が持っていきました。
我が家の歴史を引き継いで。
プロフィール

九州オーク

Author:九州オーク
九州の樫の木が大好きなアラ還のおじいさんです。
私の仕事は下記をご覧下さい。

松本意匠

エコデ・プロジェクト

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