第2次大戦中の大川の飛行機工場(その2)
2008年8月に大川の飛行機工場についてお話しましたが、今年のお手伝いしました大川木工まつりのイベントの一つに、鳥人間コンテストの滑空機も展示することになり、再度飛行機工場の事を調べてみました。
福岡の渡辺鉄工所(後の九州飛行機株式会社)で昭和18年から白菊という練習機を作っています。当初主翼だけが木製でしたが、後に胴体後部や尾翼等も木製に変更されたようです。私はこの白菊の木部を大川で作っていたのではないかと考えました。
大川市に保存してありました当時の写真(旭航空機関係を中心とした)を調べましたところ、加工冶具にK11W1と書いてあるのを見つけました。これは白菊の型式番号です。白菊は終戦までに約800機が生産されていますが、その木部のすべてが大川で作られたわけではないでしょう。
この当時国の研究機関では3次元を真空成型で行っています。これは大川で20年ほど前から行っている真空プレスというゴムチューブを利用する立体に突き板などを成型する方法と基本は同じです。当時の工場の写真にもゴムを張った冶具が見られますが、詳細は不明です。しかし、型を使った成型や曲げを行っていたことは確かです。
これらの技術は後の家具製造技術にどのように活かされていったのでしょうか。または、活かされなかったのでしょうか。真空プレスが大川に導入されるまでのブランクが気になります。
福岡の渡辺鉄工所(後の九州飛行機株式会社)で昭和18年から白菊という練習機を作っています。当初主翼だけが木製でしたが、後に胴体後部や尾翼等も木製に変更されたようです。私はこの白菊の木部を大川で作っていたのではないかと考えました。
大川市に保存してありました当時の写真(旭航空機関係を中心とした)を調べましたところ、加工冶具にK11W1と書いてあるのを見つけました。これは白菊の型式番号です。白菊は終戦までに約800機が生産されていますが、その木部のすべてが大川で作られたわけではないでしょう。
この当時国の研究機関では3次元を真空成型で行っています。これは大川で20年ほど前から行っている真空プレスというゴムチューブを利用する立体に突き板などを成型する方法と基本は同じです。当時の工場の写真にもゴムを張った冶具が見られますが、詳細は不明です。しかし、型を使った成型や曲げを行っていたことは確かです。
これらの技術は後の家具製造技術にどのように活かされていったのでしょうか。または、活かされなかったのでしょうか。真空プレスが大川に導入されるまでのブランクが気になります。
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